放牧が始まると、牛達の顔が明らかに和らぐ。
鼻先に、目元に、おでこのクルリン巻き髪に、背中に、お腹に、しっぽの先まで
高原の涼しく澄んだ風が優しく、青草の中へと抜けていく。
牛達が気持ちよくなって、ウトウトと目をつむる。
この顔がたまらなく、好きだ。
およそ草食動物としては、有り得ないような油断っぷりだけど、
たまにお腹出して寝ていて、
「もしも私が狼だったらどうするの?」と思うけど
ここで暮らす幸福感が伝わってくる。
以前、牛達との別れを綴ったブログに対して
匿名の方から、こんなコメントをもらった事がある。
「ミルクが出なくなると殺して食べられちゃうってちょっと。。。余生を牧場でゆっくり送らせてあげるのが優しさではないんだろうか。ありがとうとトラックに向かってって言うけれど、殺されに行くわけじゃないですか。なんかひどすぎる。さんざん働かせて、働けなくなったからって肉になるしか道はないって言うけれど、そういう道を勝手に決めたのは人間じゃん。わたしにはそんな残酷なことは理解できない。」
このコメントには、とても傷ついた。
牛達を育てていくうちに、家族の感情が湧かないはずがない。
家族として、老衰で死ぬまでずっと一緒にいられたら
どんなにラクだろうか。
だけど、それは出来ない。生まれてくる次世代の子牛達の養育に
支障が出るだろう。スペースも限られているから、なおさらだ。
今の牛達は、人間の都合に合わせて品種改良されているから
野生で生きていくのは難しいと聞く。
人が早朝から夜中まで365日、牛に寄り添う事で
牛達も快適に生きていく事が出来る。
そして、私達は共生の関係にあるのだ。
牛との別れの時に、いつも、思い知らされる。
「仕事仲間だったんだ。」って・・。
家族とも友達とも違う存在で、ましてやペットじゃない。
なんのために一緒にいるのかと考えた。
牛乳を搾取するためだけに一緒にいるのだったら、
牛舎に閉じ込めて、もっと高泌乳になるようにだけ考えて
牛がダメになろうと、不幸になろうと関係ないはずだ。
だけど、多くの酪農家たちは、そんな事していない。
我家も、共に暮らしている牛には
幸せを感じてもらいたくて、ここに居たいと思ってほしくて
牛ファーストで仕事をしているつもりだ。
多くの乳牛達は、別れの先では、
二束三文の値段で買いたたかれて、
安い肉として、食べ放題などに並び、下手したら食べ残されて
ゴミ箱に行くかもしれないと聞く。
我家の牛達は、中屋敷さん~荻澤さんの手によって
「三谷〇〇ちゃんのお肉だよ」と、本当に大事に食べてもらっている。
牛との別れは避けられない。
けれど、共に生きてきた命だから、責任を負った命だから
最後まで「三谷〇〇ちゃん」として、大事にしてもらいたい。
私が牛で、結局、淘汰される運命ならば
そう願うだろう。
人間は、そんな事にならないけれど・・想像だけど・・。
牛達が気持ちよさそうに
ぽわ~んと、うたた寝している姿は
私を安心させてくれる。
「ねえ、ここに居て幸せ?楽しい?
もしも、生まれ変わる時に神様から『君、もう1回乳牛やって』と
言われたら、また一緒に仕事しようよ。一緒に暮らそうよ。
もしも、今度は私が牛で、あなたが人になったら
同じように一緒にしようね。」
牛の大きな瞳と私の小さな目が合って
私達は、そんなような会話をした。